人には人の勝利条件が
丸海てらむです。
人生結局何をすればいいのか? それをずっと考えている。ずっとわからない。
毎日何かしら目の前にやることがあって、それをやるだけで毎日が過ぎている。
一年くらい何もすることがなかったが、それでも動画を見たりこういう文章を書いたり遊んで暮らしていたら時間は過ぎていった。
自我がちゃんと芽生えてからもう何年も経つはずなんだけど、未だに何をすればいいのか、生きる目的のようなものを見つけられないでいる。
ここで数年前に考えた自分の言葉が思い出される。
「人生に目的はないのだ、強いて言えば生きること自体が目的なのだ。何か我々の人生より崇高なモノがあってそれのために人が生きている、なんて考え方は人間を歯車や道具に貶めてしまうつまらない考え方である。我々人間の人生こそ最も重要なもので、全てのモノは人が生きるために在る。何かのために生きるんじゃない、我々のために他のモノがあるのだ」
こうハッキリ書いてみても、自分でも全然実感が湧かない。実践できているだろうか。
前よりは人の頼み事のために自分が我慢するということも減った気がするし、過度な節約のために何かを買うのを我慢することも減った気がする。それでも、どれだけ言葉を紡いで見ても、自分の心の奥底には「自分が幸せか不幸かなんてどうでもよいのだ、他にもっと重要なモノが何かあるはずで、それのために全てを捧げなければならない」という気持ちが渦巻いている。もちろんその隣では「自分のために生きればよいのだ」と前述した思想が同じ大きさで存在している。
過度な自己犠牲の精神はたぶん生まれ育った家の中で身に着いたものだと思う。つまり父と母によるものである。
そして自分を大事にしようと心がけ始めたのは高校に入って以降だと思う。友人や先生やツイッターでバズっていた誰かの言葉や、ゲームを通じて知り合った人たちや、職場の先輩同期後輩など、とにかく家庭以外のだいたい全部の人によるものである。
前者と後者、人数比で言えば100倍近くある。しかし幼い多感な時期に影響を受けたからか、親というものはそんなにも影響が大きいものか、未だに父母から教わった考え方が捨てても捨てても残っている。
結局人生を通して我々は何をすれば良いのか。我々が迫られる日々のいろんな決断において、我々はどうやって個々の選択肢に評価値を付ければ良いのか? 我々が、我々の決断に用いるべき物差しは何か。
とりあえずのところ、自分の幸福と不幸の量というのはそれなりに信用できる物差しだなと思う。自分勝手と言われようが、別に人間の人生より大事なものはたぶん無いんだから良しとしたい。
単純な物差しだが、かなり簡単に運用できてしかも実用性が高い。選択肢が複数あったら、単にそれぞれを選んだ後のことを想像して、どっちの世界線のほうが自分が気分良く居られそうかで選ぶ。
いろいろ書いてたら書き疲れちゃった。
何が言いたかったんだったか。人には人の幸せがある。自分が幸せならそれでいいんだと思う。そして自分にとって何が幸せで何が苦痛か、意外とわからないものである。生きてみて覚えるしかない。そしてなるべく良さそうなほうを選んでいく。で自分のために生きて見れば、自然と人のためにもなっていたりすると思う。よっぽど孤独を好む人間でなければ、あるいはそうだとしても。
おやすみなさい。