丸日記

丸海てらむの日記です

米津玄師を聴いている

丸海てらむです。

このブログを始めてからの記事の2/5が音楽の話だけど、今日も音楽の話をする。こんなつもりではなかったがまあ良い。

 

今日は米津玄師を聴いている。今はアルバム『YANKEE』の『ホラ吹き猫野郎』という曲を聴いている。懐かしい曲だ。さっきまでは『STRAY SHEEP』をシャッフル再生していたんだけど、聴き慣れない曲に疲れたりして、知ってる曲に帰ってこようと思った次第。『YANKEE』がリリースされたのは2014年4月らしい。7年前。そのころ僕は高校生だった。卒業してからそんなに経ってるか。ざっくり僕の経歴を書くと中高は普通に三年三年と過ごし、卒業してから三年間ニート生活をした後、就職して一年半働き一人暮らしを始め、今月から仕事を辞めてまた無職の成人男性になった23歳男性です。転職活動中ということになるがけっこうのんびりしてブログを書いたりゲームをしたりしている。ニート時代に家族に怒られ過ぎて心を病んだり仕事に疲れて心を病みそうだったりしたので今はちょっとだけゆっくり過ごしたいなと思っている。休む時期を。2か月くらいしたら次の仕事決めなきゃなあと思ってはいる。

 

そんな23歳が7年前を思い出しながら曲を聴いている。『YANKEE』がリリースされたころ、僕にとって米津玄師は「マトリョシカやパンダヒーローの人が、世間に出て頑張っているらしい」というくらいの感じだった。ネットとリアルみたいな対立があって、両親からの偏見やニュースでのコメントとかでネットやオタクはやたらと悪者にされていた。ハチさんが名前を出してCDを出すのはそれに対する挑戦みたいに僕は勝手に思っていて、これが誤解を解いてくれるか、というより、自らそんなつらいことをしなくても、どうせ失敗するだけだよ、ニコニコで今までどおり活動していたほうがいいよ、と思っていた。1stアルバム『diorama』を聴いたときはなんかあんまりハマれなくて、でもこれを好きだと公言してたらちょっとかっこいいなと思ったり、なんか遠い世界の曲だなあと思ったりして、そんなに好きではなかった。初めて『YANKEE』を聴いたときの気持ちはもう思い出せないけど、どうしてかこのアルバムを僕はipod touchに入れて何百回も聞き続けていた。メロディも歌詞も、思うところがたくさんあった。いま『WOODEN DOLL』が流れているが、この曲の2:30あたり、Cメロって言うのか、この部分の歌詞が特に。

 

文章を書いている途中でうっかりネットサーフィンを初めてしまい、何を書いていたか忘れてしまった。危うい。

 

あと思い出したことがあり。『Lemon』の「未だにあなたのことを夢に見る」の「る」の部分とか、『vivi』の「どうにもならない心でも」の「心でも」の部分とか、微妙に調から外した音をふいに使うことがあって、年々それが自然になっていくなあと思っている。

 

という話を一年前くらい友人にしてみたら全然納得してもらえず、実際に曲を流しながら「この部分のこれが~」と説明して、ようやくわかってもらった、ということがあった。

 

今自分で曲を聴いてみて、実際どう変なのかと説明しようとすると全然わからんどころかほんとにその箇所が変なのか、そもそもどの箇所だったかさえはっきりしない。書きたかったのは、「自分はそういう人が気づかない音に関する違和感に気づくんだから、音楽のセンスがあるんじゃないか」ということなんだけど、ちょっと怪しくなってきた。今度歌ってみたでも作ってみよう。

 

米津さんの話をするか。要はオタクのヒーローが世間に出ていったのだ。それでどうなるかと見守っていたら、いま日本で一番売れてるアーティストになってしまった。鬼滅の刃か米津玄師かといった感じである。オタクへの偏見みたいなものはどうなったか。オタク世代が大人になってしまい、世間の目が変わったというより、僕らが世間になってしまった。7年経てば中学生が大学生になり、高校生は社会人になり、大学生だった者は会社でバリバリ働いている。7年分みんな年を取り、老人が押し出され若者が入ってきた。既にゲームが趣味って言うのが全然問題ない時代になっている。何のゲームで上位何位ですとか大会出ましたって言うと、知らん人にすら「イースポーツってやつ? すごいね」と言われることがあり得る。時代は変わった。あまりにも早い。

 

昔話、両親の目を盗んで寝室から起きていってパソコンを点け、夜通しニコニコ動画を見ていたあの頃。何を見ても面白かった。寂しかったのもある。若いというのはそれだけで良かった。あの頃は今よりまだ元気があった。まあ美化されて良かったことしか思い出せないというのはある。あの若い時代はもう帰ってこないが、今を十代として生きてる人がまたいるのだ。僕は23になった。僕の作ったものを誰か見るかもしれない。この文章も。

 

あと、どうしてかわからないが、個人的に作られた作品ほど良いものになる、という仮説がある。誰か具体的で私的な友人とかを思い浮かべて、その人に向けてものを作ると、いろんな人に刺さる、という。なぜかわからないが。理由の一つに「安心して作れるから」というのがあるかもしれない。大勢の目に触れるものだと、そのうち一番ヤバイ人に見られて何か文句を言われるかもしれない、という心配がある。誰も傷つけないものに、と思うと書けるものはけっこう少なくなる。後は、「大勢」とか「大衆」とか「一般の人たち」という人間は存在しない、というのがある。文章を読むのはいつも個人である。感動するのは僕である。当たり前だが個人的な感情というものは個人に存在するものである。一個人一個人それぞれに対して、見たときにどう思うかという評価値があって、売れるというのはそのうち「めちゃくちゃ刺さった!」という感想を持った人が一定数以上いた、というのが売れたということで、マイナーながらも成功したということになる。数は少なくても強烈な感情を呼び起こす必要がある。誰が見てもほんのりまあ悪くないなと思うけど感動する人はいない、というのでは売れないし、みんな買いはしない。ここまで書いて自分で変だと思ったが、良いものとは売れたものだろうか?

 

誠実かどうか、正直かどうかが作品の良し悪しだろうと思う。誰かにこう思われたい、というより、思ったことや浮かんだ言葉を正直に伝えて、自分の内にある感情を正確に伝える、ということが誠実とか正直な言葉だと思う。自分の思っていることを正確に伝えること。その結果どう思われるかは謎である。何を言うか、何を言えばいいかは難しい。

 

ほんとは小説家になろうと思っていたのでこう創作論みたいなことを考える。ちゃんと小説を書いたのはだいぶ前のことだけど、よく書けていたかはわからない。また書くかどうかも謎である。そもそも僕は小説を読むのが好きじゃないのだ。

 

何を書きたいかよくわからんくなった。米津玄師の『YANKEE』というアルバムが好きなので、最近米津さんを知ったという人も聞いてみてください、という雑な締め。ではまた。

 

 

 

書きたかったことを思い出したので追記。

『YANKEE』の最後に「ホラフクネコヤロウ」という曲があった。聴いてみるとドーナツホールのセルフカバーである。最初に見たとき、隠しトラックだと思った。iTunesでCDを取り込むと隠しトラックもまとめて出してくれる。きっと一度初音ミクで出した曲をそのまま入れるのがなんかあれなので隠しにしたんだろう、と思った。タイトルが違うのは、この曲には裏のテーマがあってそれと関係あるんだろう、とずっと思っていた。

 

でその謎がつい先日わかったのだけど、これである。

 いまAmazon Musicで見てみても『ドーナツホール(COVER)』となっている。僕が5年以上ipod touchで聴いていたのはなんだったんだ。ずっと意味を考え込んでいた。「ホラフクネコヤロウ」、おしゃれでいいなと思っていたのだ。嗚呼。

 

という。

 

たぶん11曲目の『ホラ吹き猫野郎』の仮題か何かだったのが場所を変えて紛れ込んだとかだろうか。まあ謎がわかってすっきりした。今まで考えていたのは、「ホラフクネコヤロウ」ってのは米津さん自身のことで、ドーナツホールで歌ってるいかにも迫真な歌詞も、ほんとは嘘なんだ、で自嘲気味に言ってるのか、それに伴って『ホラ吹き猫野郎』のほうも実はすごく重要な曲なのでは、みたいなことを考えていたんだけど、全然そんなことはなかった。嗚呼。

 

そんだけです。では。